自殺はするべきか?[死シリーズその2]

2020年2月22日

前回は、以下の結論を述べました。つまり、

・剥奪説によれば、死はたいていの場合悪い。→得られたはずの幸福を失う。

・将来得られるであろう幸福値と不幸値を合算して、死ぬことが良いことか悪いことかを判断できる。

しかし、これらの結論には「ツッコミどころ」があったと思います。それを突っ込んでいこう!

生きていること自体に価値にものすごい価値があるやん?

生きること自体に価値がある!

生きていること自体の価値を無視しているのではないだろうか?生きていること自体が尊いものであり、幸せであると考える人もいる。この場合、以下のようになる。
将来の幸福値の合計 = 生きていること + 感じる幸福
将来の不幸値の合計 = 感じる不幸
もしも、(幸福値の合計ー不幸値の合計)なら、正の値なら生き、負の値ならば死ぬ。生きること自体にどれほどのポイントを持たせるかはその人次第だ。しかしその人が生に高いポイントをつける場合、その人はかなりの苦痛を味わおうとも、生きていることを合理的判断になる。

ストレスが激しい時に合理的判断なんて出来ないじゃろ!

ストレスマックス。

人間はストレスが過度にかかっている時に合理的な判断ができるのだろうか。
例えば、ストレスが僕たちの合理性を破壊する事例として以下がある。
・若年者がいじめが原因で自殺を試みる。
・仕事のストレスで自暴自棄。→DV、暴飲暴食、ドラッグなど。
・両親の介護のストレスから殺人未遂
などなど。これらは冷静であれば、防げるものだと思う。(もちろん簡単な話だとは思っていない。言うは易し。)
事例でもわかるように、ストレスは僕たちの冷静さを奪い、合理的な判断を出来なくする。これが真ならば、どうしてストレスで苦しむ瞬間に今後の人生の幸福度を正しく図れることができるだろうか。

自殺は良いのか悪いのか。

剥奪説によれば、今後の人生の幸福合計値により自殺の良し悪しは左右される。
つまり、今後の人生を冷静に見通してみて、幸福の方が多いのであれば、今現在どれほど苦しくてもあなたは生き続けないといけない。反対に、不幸の方が多いようであれば、自殺は良いとされる。
 道徳性を重んじる人々はこれに対して、絶対的に何がなんでも自殺はいけないと考える。なぜならば命は尊く、それを自ら投げ捨てるなんて!!というわけだ。
 僕は、その人の命なのだからその人が好きに使っていいと思っている。タバコや運動不足は寿命に影響を与えることは周知の事実である。それにも関わらず、僕がいつも駅前で会うおじさんは毎日タバコを吸っているし、僕はどうしても運動する習慣が身につかない。これは命に関わる問題で、命をすり減らすアクションだ。他人はこれらを非難する権利はない。タバコを吸うのも運動をしないのも、その人の自由だからだ。命をすり減らすアクションをするのが自由ならば、どうして自殺は制限されなければならないのか。
以上から、道徳性は自殺を制限できないと考える。

結論

自殺はあなたがしたいのであれば、しても良い!本当にしたいのであれば。

一定の合理性を含んでいると思われる。